10期丸﨑治先輩よりの談話

2012年12月28日
10期 丸﨑 治 先輩よりお寄せ頂いた談話

この度の、天心無限會の設立を心よりお喜び申し上げます。
残念ながら設立総会、祝賀会への参加はできませんでしたが、設立当時の事を忘れないうちに皆様に覚えておいて頂きたいと思い寄稿させて頂きます。

これは10期生であった 私が当時体験したことであって、その蔭で尽力された方が仮にいらっしゃっても、一生徒としての私が知ることが出来ない事も多々有ったかも知れません。その点はご容赦ください。

 我々10期生が入学したのは忘れもしない1962年 始めて野球部が甲子園に選抜代表として出場した年でした。
剣道部一年生としては添付の写真7名でした。
 金剛寮に当時の剣道部員(と申しますのは、同好の部員も含めて何人もの先輩剣道部員がいましたので) 野球部、音楽課を除く 全日制男子全員が一緒に寮生活をしておりました。
当時の金剛寮 寮長は川上徳蔵先生(当時七段)でした。主に稽古を続けていたのは 8期の日野先輩 9期の夏山先輩、田川先輩と我々7名でした。

 秋になり、剣徳寮という場所をPLYの裏に授かり、そこに川上徳蔵先生を寮長として剣道部だけの寮として移ることとなりました。
最初のメンバーは、前述の3人の先輩と1年生6人の計9人でした。他の先輩方や10期の松田君は離れて金剛寮に残りました。

この剣徳寮の創寮、これをPL学園剣道部の始まりと考えるならこの時がそうです。
当時の寮や道場はPLY裏の天井の梁が直接に見えるような所で、冬には寮や道場に粉雪が吹き込むこともありました。
屋外の様な道場の板は冷たく、足の指のところがよくひび割れし、竹の皮の黒薬を使い火箸で足のひび割れを焼いたことも、今では良い思い出です。
PLYの会館内の板が打ち直されてからは、そちらを道場としても使用出来るようになり少しは楽になりました。

 

 

 

この年(1962年)からの公式の優勝記録は残っているでしょうから、ここでは触れません。
ただ、大阪の優勝旗を総なめにしたのは快挙でした。
その当時の記憶にあるのは、特に都島工業の白藤さんは強かったということです。
この後は、毎年大阪では負け知らずでした。

 稽古はその当時川上徳蔵先生が、2代教祖の許可を得て作られた『竹刀によるPL剣道形』が中心でした。
先先の先、先後の先、後の先を中心とし武専の精神を体系化した活気的なものだったと思います。
その中で今でも忘れられないのは、折敷胴と片手横面の形でした。
練習はいたしましたが、使うことはありませんでした。今でも記憶に残っております。

 我々に地稽古等は殆ど許されず、ずっと掛かり稽古ばかりだったと記憶しております。
わずか試合の前に、試合稽古をお互いにした記憶があります。
朝晩の稽古は、その当時から厳しいものでした。太鼓の音で稽古が始まり、太鼓の音で稽古が終わりました。
夕方は、警備課剣道部からの先生方との合同稽古が毎日の日課でした。
警備課からは、上辻熊夫七段、上田幸吉四段他、時々天理より山本六段が来て厳しい稽古に励んでおりました。
 時には薙刀や高段者の諸先生方をお招きして、稽古をつけて頂くこともありました。
印象に残っておりますのは、当時九段の先生をお招きして稽古をつけて頂いた時のことです。
全員が順番に稽古を付けて頂き、相当の高齢にもかかわらず、竹刀が全く体に当たらなかった記憶があり、すごいものだと皆で話し合ったことです。

 

 

 川上徳蔵先生が八段になられたのは翌年の1963年だったと思います。
皇紀2623年の春というので始まった新聞を読んだ記憶があります。
その時に「剣道は腹だ、腹だ」とおっしゃっていたのを今でも覚えております。
ご存知のように川上徳蔵先生は太鼓腹でしたので、部員で「ああいう風にならなければ八段になれないんだ」なんてつまらないことを言い合ったものでした

 寮生ですから掃除炊事の当番は当時の1年生が交代で行い食事は食堂まで取りに行って、道場で机を出して食事をしておりました。
全員で一緒に食事をし、登校し、一緒に常に行動したものでした。
 川上家は非常に家庭的で奥様を始め、道輔さん(時々東京から帰ってきて)などにもとてもお世話になりました。
当時は寮の一角に家族でお住まいでした。
剣徳寮では、川上徳蔵先生は詩吟が好きで、我々にも教えてもらいました。特に尊敬される乃木大将の『金州南山にて「山川草木」の詩を吟ず』の詩吟を今でも覚えております。
剣道部員は勉強の時間もかなり裂いており、教育者として徳蔵先生が推進されて頂いていたと思います。

 私は1964年の第3学年2学期から金剛寮に移りましたので覚えてない方もいらっしゃるかもしれません。
創立時のことは、是非とも天心無限會の皆様に知って欲しいと思い、寄稿させて頂きました。
 ちなみに、私が居た間はずっと寮も剣道も責任者は川上徳蔵先生お一人でした。
もし上辻熊夫先生がその後学園剣道部の指導係を務められたとしたら 2代目ということです。

 2代教祖様がみおしえで剣の道を教えられ、それによって無敵になった人がいたという話は、(お名前は失念しましたが)その当時でもすでに伝説の域にあり、徳蔵先生もよく話をされました。
しかしながら、PL学園の剣道は川上徳蔵先生が2代教祖様の許可を得て、実戦向きに武専の経験を生かし作られた『竹刀によるPL剣道形』がその元になっております。
 今はどうなっているのでしょう。
天心無限會の今後の発展をお祈りいたします。